~ 君の願いごと ~



新しい一年の始まり。元日の朝を、日向家の子供たちは風邪一つひくことなく、元気に迎えることが出来た。そのことを何より感謝しつつ、母親は可愛らしいポチ袋に入ったお年玉を子供たちに手渡した。
夫がいなくなったこの家で、彼女にとって宝物といえばもう子供たちしかいない。お金はかけられないけれど、こうした行事を一つ一つ大事に子供たちにしてあげたいと彼女は思っている。
それに子供たちは中に入っている金額が少なくても、素直に喜んでくれている。下の二人などは、小銭がジャラジャラいうだけで嬉しそうだ。本当に、なんて可愛らしいんだろう、と顔がほころぶのが自分でも分かる。

ただ、一番上の子・・・・小次郎にとっては、少し足りないかな、とも思う。もう6年生だから、欲しい物もそれなりの値段のものになっているだろう。
けれど、家計が苦しい中ではなかなか十分な金額はあげられない。「少しだけどね」とすまなさそうに付け足す母親に、兄弟たちは晴れやかな笑顔で返した。

「ううん。ありがとう、母ちゃん!」
「ねえ、これでお菓子、買いに行ってもいい?」
「お店、今日開いているのかなあ」

あれを買いたい、これを買いたいと楽しそうに話す子供たちは、彼女を幸福な気持ちにさせてくれる。
一年のスタートとしては上々だ。お年玉というのは、もしかしたら子供のためだけにあるのではないのかもしれない。

だけれど・・・・。

ふと、この先のことを思い、母はここ最近で急に背の伸びてきた長男に目を移す。

        来年は、ここにこの子はいないのかしら・・・

長男の小次郎は、この春から東京の私立の中学校に進むことが決まっていた。都内とはいっても郊外にある進学校で、近年はスポーツにも力を入れている。広い敷地の中にサッカー専用のグラウンドがあるとのことで、将来サッカー選手になることを目標としている小次郎にとっては申し分ない環境だ。
その東邦学園に、特待生待遇で入学し、入学後は寮で生活をする。
息子の生活がサッカー一色になり、自由になる時間など殆ど無くなるだろうことは、彼女にも想像がついた。

        ううん。それでも、まだ中学生だもの。お正月くらいは帰って来るはず。

「どうかした?母ちゃん」

視線を感じたのか、振り向いて尋ねる息子に、「ううん、何でもないよ。・・・さあ、朝ごはんにしよう。お雑煮だよ」と答えて、彼女はいつものように忙しく働き始めた。






*******






「兄ちゃん、いいよー!」
「おう!」

北からの微風。冷たい空気に頬と鼻の頭を赤くして、日向家の4兄弟は公園で凧揚げをしていた。
いつもの公園なら他にもチラホラと子供の姿が見えるものなのに、元日の今日は、日向兄弟の他には誰もいなかった。みんなどこかへ出かけているのか、それともまだ家にこもっているのか。

日向の家には周りに挨拶に行くような親戚もないから、母親からお年玉を貰ってお雑煮を食べれば、これといってもうすることはなかった。
それで暇を持て余した子供たちは、凧を持って公園にやってきたのだ。
小次郎などはサッカーボールを蹴りながらやってきたが、勝や直子に「凧を上げて」と頼まれれば、サッカーボールは一旦脇に置いておくしかなかった。

小次郎が糸を持ち、合図に合わせて走り出す。タイミングを見て尊が凧を空に向かって放す。
ゆるやかに吹く風に乗って、ゆっくりと凧が上昇していく。冬晴れの空の下、テレビ番組のヒーローが描かれた子供用のカイトは、勝や直子、尊の笑い声と共に空高く舞う。


凧が落ち着いたところで、小次郎は凧糸を尊に持たせてやった。小次郎よりも一回り小さな手で、尊は凧を落とさないようにと真剣な顔をして糸を操る。

「兄ちゃん、あたしもやりたい!」
「おれもー!」

自分も自分もとせがむ妹と弟に「順番な」と笑いかけ、小次郎も凧を見上げた。凧は雲ひとつ無い、青く透き通った空の中を優雅に泳いでいる。たまに太陽の光にキラリと輝いてはクルクルと回る。そのたびに弟たちの嬌声が聞こえる。

小次郎は目を細めてその様を眺めながら、あの凧のように空高く飛べたなら、さぞ気持ちがいいだろうな・・・と想像した。

         もしも自分が凧ならば、もっと高く、もっと遠く        

小次郎は空に向かって、まだ細いその腕を精一杯に伸ばす。


高く、高く、強く。
そうありたい。そういう自分に必ずなってみせる。


         そうなれないのなら。

小次郎は今朝の母の顔を思い出す。自分を見つめる、色の無い母の瞳。

        そうなれないのなら、寂しい思いをさせてまで家を出る意味が、全く無くなってしまうじゃないか        

『いなくなったら寂しい』とは言わないでくれている。それがありがたいと思う。
もしそう言われたとしても東邦に進む気持ちに変わりは無いが、家族を置いて出て行くことが更に辛くなるだろう。

              頑張らなくちゃ、な。




「日向!」

その時、公園の入り口の方から小次郎を呼ぶ声が聞こえた。何かと思い振り向くと、そこにいたのは自転車に跨ったままの若島津だった。

「若島津?・・・どうした、正月から。暇で出てきたのか?」
「・・・失礼な奴だな。正月からヒマって、お前の方だろ」

まあ、それは確かにそうだ・・と小次郎は思う。

明和FCのチームメイトでもあり、学校の同級生でもある若島津とは、自然と顔をしょっちゅう合わせていた。それでもこの正月は、逆に会うことも無いだろうと小次郎は思っていたのだ。若島津の家は空手の若堂流の宗家であり、正月から来客が多い。弟子が揃っての初稽古もあるのだと聞いていた。だから小次郎にとっては若島津がこの場所に来ているのが意外なことだった。
若島津は自転車を公園の入り口近くに止めると、小次郎の方に歩いてやってくる。ダウンの上着にマフラーを巻いて格好は暖かそうだが、そこから出ている耳と鼻が赤くて冷たそうだった。自転車で飛ばしてきたのかもしれない。

「何だ、お前。どっか行く途中だったのか?」
「どっかって・・・お前を探してたんだよ。日向んちに行ったら、おばさんが『もう遊びに行った』って言うからさ。・・・そうだ。あけましておめでとう」

若島津はそう言うと、改まってペコリとお辞儀をし、新年の挨拶をした。
小次郎も「あけましておめでとう」とペコリと返し、二人は顔を見合わせて笑った。

若島津に気がついた日向家の弟妹たちも、「健ちゃーん!あけましておめでとー」と手を振ってくる。それらに手を振り返して、若島津も「あけましておめでとう!今年もよろしくなー!」と大きな声で挨拶を返した。

「尊も直子ちゃんも勝も」
「うん?」
「ほーんと、日向と違って可愛いよな」
「だろ」
「・・・嘘だよ。お前も可愛いよ」
「気持ち悪っ」

くだらないことを言い合っては笑う。そうして小次郎は、春になれば家族だけでなく、もしかしたらこの親友とも離れることになるのかもしれないと、改めて思った。

小次郎が東邦学園に行くと決めた時、若島津は何も言わなかった。
明和FCの何人かが小次郎のことを『裏切り者』と呼びFCを離れていった時でさえも、若島津は何も言わないでいてくれた。

それどころか、「俺も東邦学園に行こうかな」と秋頃になって若島津が呟いたことがあった。勿論、そうなればどんなにか嬉しいし心強いだろうと小次郎は思ったが、続く「親父が許してくれて、受験できたらの話だけどさ」という言葉を聞いて、何も言えなくなってしまった。

若島津の父親が、若島津がサッカーをすることを快く思っていないのは、周りの誰もが知っている。若島津の父親は、息子が空手一本でやっていくのを望んでいるのだ。
それに私立の中学校に受験して入るのは簡単なことではないとも聞いている。明和小でも中学受験をする子供はいるが、大抵は4年生から大手の塾に通っていた。6年生の秋になってから受験を決めるなど、あり得ないらしい。

若島津からはその後、その件については触れてこない。だから小次郎も直接には聞いていない。けれど、若島津の母親や姉の志乃からは、相当に本気で若島津が受験勉強をしているのだと聞いている。それでもまだ、合格できるかどうか分からないのだとも。そして合格できたとしても、父親が入学を認めるかどうかは更に分からないのだとも。

        やめないでいてくれれば、それでいい。

若島津家の問題に、小次郎が口を挟めるはずもない。また若島津と父親のどちらが正しいとか正しくないとか、そういうことではないのも分かっている。
それでも、東邦に来ようが来まいが、若島津にはサッカーだけは続けて欲しいと思う。サッカーさえ続けてくれていれば、違う学校に進んだとしてもこの先、何かの機会に会えることもあるだろう。
同じチームでサッカーを出来ないとしても、いつか敵として当たるとしても、それでもいい。この先、何の関係も無くなるよりはよっぽどいい。

サッカーというつながりが無くなってしまえば、自分が東邦に進んで若島津が明和東中に進んだその時には、きっと、もう会うこともなくなるのだろう・・・小次郎はそう考えていた。


「日向、さっき何してた?」

若島津に話しかけられて、小次郎は自分が物思いに耽っていたことに気がつく。

「何って?」
「こう、 手を上に伸ばしてさ、グーっと。ちょっと怪しい奴になってた」

なんだ、見られていたのかと苦笑する。凧みたいに空を飛びたかったのだと言ったら、若島津は笑うだろうか。

「で、何の用なんだよ」
「用って?」
「俺のこと探してたって言ったじゃんか」

確かにさっき若島津は、自分を探していたと言っていた筈だ。けれどこうして会えても、特に用事らしいことを切りだしてくる様子もない。
どうして若島津はここに来たのだろうと思い、問いただした。

「用っていうほどのものじゃないんだけど・・・。俺、今日はこれから忙しいからさ、今なら会えるかなーって思って」
「だから、何の用なんだよ」
「用って。用が無くちゃ来ちゃいけないのかよ」

少しムっとしたように言い返す若島津の拗ねたような顔を見るのが面白く、小次郎はクスリと笑う。

「別に無くてもいいけどよ。俺もお前に会えたら楽しいし」
「・・・一年の計は元旦にアリ」
「・・・あ?」
「一年の計は元旦にあり、って言うだろ。で俺んちは、正月の朝に書初めさせられる訳。兄弟並ばされてさ、今年の目標を書けって」
「うん?」
「『日向とサッカー』って書いたら、すげぇ怒られたんだよ。一体どう思うよ」
「・・・馬鹿じゃねえの?お前」

幼い頃から書道の手ほどきを受けている若島津は、普段から整った文字を書いていた。それを知っている小次郎は、流麗な文字で書かれた『日向とサッカー』を想像して笑った。

「笑ってんなよ。今年の抱負を書けというから書いただけなのに、俺は親父に頭叩かれたんだぞ」

ムカつく・・・と呟きながらグルグルとマフラーを巻き直す若島津に、小次郎は「ああ、コイツとずっと一緒にいたいな」と素直に思った。

「わ・・」
「あれ、日向。お前、手袋は?」

小次郎が口を開きかけたとき、若島津は小次郎が手袋をしていないことに気がついた。凧をあげている間に寒風にさらされた小次郎の手指は、赤くなってかじかんでいる。

「あ。えっと・・・家に忘れた。取りに行くのも面倒だからいいかと思って」
「ばっか。冷たいだろ。・・・ホラ、こっち貸してやる」

若島津がはずして寄越した右手の手袋を、小次郎は受け取ってつけた。中に綿が入った厚手の手袋は、小次郎の冷えた右手を暖かく包んでくれる。

「・・・あったかいな」
「そりゃな。左手は俺と手ェつなぐか?」
「やだよ。」

白い息を吐きながら人の悪い笑みを浮かべた若島津が、冗談のように右手を差し出すのを、小次郎は笑って却下した。
素手の左手はジャンバーのポケットに突っ込む。手なんか冷たくても一向に構わない。
隣に立っている若島津の体温が上着越しにも伝わってきて、十分に温かかった。



「兄ちゃーん、健ちゃーん。こっち来てー」

凧揚げに飽きたのか、兄たちだけで楽しそうにしているのをずるいと思ったのか、直子が小次郎と若島津を呼びにきた。

弟妹のいない若島津は、何かにつけ直子や勝を可愛がってくれる。そのことを分かっているから、直子たちも若島津のことを『健ちゃん』と呼び、慕っていた。
直子と手をつないで尊や勝の方に歩いていく若島津の背中に向かって、小次郎は声をかける。それはさっき、言おうとして言えなかった言葉だ。

「若島津」
「ん?」
「・・・お前、サッカーは止めないよな?」

若島津は小次郎を振り返り、いかにも心外だというような顔をして見せた。

「親父に殴られたって、書初めは書き直さなかったんだぜ。・・・『日向とサッカー』は有効だろ?」

そう言って、若島津は直子をよいしょ、と抱き上げて走り出す。直子がキャッキャと可愛らしい笑い声を上げて、小次郎に手を振る。


若島津に安心して身を任せきっている妹に小次郎も手を振って、二人の後を追いかけて走り出した。





END

2014.1.2

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